レゲエ情報 - LoveReggae 【ジャマイカと日本とハワイのレゲエ】
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Reggae History レゲエの歴史


夜明け前(1950年代)

1950年代以前のジャマイカで人気を集めた音楽はメントであった。 そのメントとは19世紀末頃アフリカの影響を強く受けて生まれた素朴なダンス音楽。

しかし50年代に入ると、人々はラジオの電波に乗ってアメリカから聞こえてくるジャズとR&Bに熱中することになる。 アメリカのビッグ・バンド・ジャズを真似するバンドも多数結成され、後のジャマイカ独自の音楽を作る基礎がこの頃つくられた。 また、50年代になると野外ディスコとも呼べるサウンドシステムが生まれる。

自宅で音楽を楽しむための楽器やレコードを揃えられなかった貧しいジャマイカの現実が産み出した、 この新しい娯楽は、またたくまにジャマイカ随一の音楽の場となった。 そのため、いくつも生まれたサウンドシステム同士の争いは過激なものであったという。

しかし、サウンドシステムが乱立すると同時に生まれた問題がソフトの不足であった。 つまりライバルの持っていない新しいレコードを求めた結果、目新しいレコードが足りないという状況になってしまう。 これがジャマイカ独自のポピュラー音楽の生まれるきっかけとなる。

サウンドシステム「コクソンダウンビート」のオーナーであるクレメント・ドット(コクソン・ドット)は、 この時期にジャマイカ人ミュージシャンを起用してのオリジナル音楽の製作に手を染め始める。 ここにレゲエを育てた名門レーベル「スタジオワン」が誕生することになる。

オリジナル音楽の誕生(1960年代)

コクソン・ドットによって始められたジャマイカ産ミュージックは、ジャズやR&Bの模倣からだんだんと形を変え、 ついに「スカ」というオリジナルのスタイルを産み出した。この音楽を産む上で重要な働きをしたのはスカタライツというバンドであった。

そのスカの誕生と前後する62年、ジャマイカはイギリスから独立。 新しい時代の夜明けを実感させるスカとういう音楽は、ジャマイカ島だけにととまらず、旧宗主国のイギリスまで届く人気ミュージックとなる。 またコクソン・ドットのプロデュースする音楽レーベル「スタジオワン」に負けじと、デュークリードというプロデューサが出現。 リードは「トレンジャーアイル」というレーベルをスタートさせる。 同じようにスカタライツ以外にも、プリンスバスター、ウェイラーズ、メイタルズなどの数多くのミュージシャンも活躍し始めた。

60年代も中盤を過ぎると、「スカ」を代表するバンドのスカタライツは解散。島の音楽は大きく変わり始める。 スカよりもゆったりとしたリズムを特徴とするロックステディが誕生したのだ。 アルトンエリス、ケンブース、ボブアンディ、ヘプトーンズ、パラゴンズなどがロックステディ期に活躍したミュージシャンたちであった。

レゲエの誕生&成熟(1970年代)

60年代末期から70年代初頭にかけてジャマイカの音楽は革命的といえるほど多様化を見せる。 具体的にはダブの発明、DJの出現、そしてレゲエが誕生する。 スカやロックステディの歌謡曲路線から外れ、よりメッセージ色の強いレゲエは、ジャマイカ島にとどまらず、世界的に波及することになる。 特に大きな存在は、72年に英国のレコード会社アイランドと契約したボブマーリィだろう。

また、ジミークリフが出演した映画『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』もレゲエを世界に伝える大きな役割を果たした。 レゲエが世界的に広まる一方、ジャマイカ本当では、DJたちの活躍が続いていた。 U?ロイ、デリンジャー、デニスアルカポーンなどのDJたちはサウンドシステムを舞台としたローカルな島のヒーローとなっていく。 それと共に、ラスタファリに強く影響された、バーニングスピア、アビシニアンズ、イスラエルバイブレーションなどのミュージシャンたちの活躍により、 島でのラスタファリの存在も大きくなっていく。

70年代中盤を過ぎると、それまでジャマイカでの主流を占めていた音楽レーベル「スタジオワン」「トレンジャーアイル」に代わり、 新興の「チャンネルワン」が登場。専属バンドはスライダンバーが率いる「レボリューショナリーズ」が務め、レゲエ・シーンの世代交代を印象付けた。 このレーベルからはマイティダイヤモンズ、スムリンズなどが多数のヒットを送り出している。 この時代の雰囲気は、 78年に公開された映画『ロッカーズ』によく表されている。 70年代には、デニスブラウン、グレゴリーアイザック、リーペリー、オーガスタスパブロ、インナーサークルなど、 現在でも活躍する大物アーティストを育てた、レゲエ成熟の時代とも呼べるだろう。

転換(1980年代)

80年代初頭、ブラックウフルーが世界的に成功を収めていたが、82年のボブマーリィ逝去と前後して、 メッセージ色の強い国際的に通用するレゲエはだんだんと勢力を失っていく。

それに代わったものがジャマイカ島内で人気を誇るDJたちであった。島に最初のダンスホール・ブームが到来したのだ。 この時期の代表的なDJはイエローマン、チャーリーチャップリン、トーヤンなどの名が挙げられるだろう。 また、ダンスホール・スタイル隆盛の中でもシュガーマイノット、ココティー、フレディーマクレガーなどのシンガーの頑張りも見逃せない。 そんなミュージシャンたちのバックを受け持つ当時の代表的なバンドがルーツラディックス。 ワンドロップというシンプルで力強いリズムで島の人気を集めた。

また、70年代から活躍するスライダンバーもベーシストのロビーシェイクスピアとコンビを組み、 「スライ&ロビー」「タクシーギャング」の名で、ラディックスに負けない大活躍を見せていた。 80年代前半のダンスホール・ブームはジャマイカ音楽産業の大きな転換期となった。 レコードをバックに歌うDJというスタイルの手軽さは、プロと素人の差をぎりぎりまでに縮めた。 つまり、昨日まで街をブラブラしていた若者の誰もが、次の日には島のトップアーティストになるチャンスを得たのだ。 その結果、一発屋に近い新人が雨後の竹の子のごとく多数生まれることとなった。

85年には、それまでのダンスホール・ブームをより加速される事件が発生した。 「スレンテン」と呼ばれるリズムの登場だ。安価なキーボード1台でつくり出されたリズムは、島の音楽勢力図を一変させた。 それまで何人ももミュージシャンが集まってつくられた音楽が、ほんの数人でつくられるようになったのだ。 制作費の安さと目新しさから、島には「スレンテン」と同じスタイル(コンピュータライズド)の音楽が氾濫することに。 されに、まったく同じリズムを流用することも大流行となった。このスタイルで一躍名を上げたミュージシャンが、 「スティーリー&クリーヴィー」の2人組であった。

開花(1990年代)

80年代には島内で隆盛を誇ったダンスホール・スタイルではあったが、そのころは世界的にはまだまだ無名に近い存在であった。 しかし、90年代に入ると、シャバランクスやタイガーなど、島内のトップアーティストが次々と世界に飛び出し、成功を収めるようになる。

また、アングロサクソン系カナダ人のスノーや、インド人のスーパーキャット(アパッチインディアン)の世界的ヒットなど、 ジャマイカ人以外のレゲエ・ミュージシャンの活躍も目立つようになっている。

レゲエはすでにジャマイカ島だけの音楽ではなく、世界の音楽に成長したのだ。